09話

無音

2023-10-20 22:47:13
 自然公園には様々な花などが植えられ、ベンチや露店の販売なども盛んだ。特に休日の昼間は親子連れで賑わっていた。平日でも赤ん坊を連れたママさんたちがおしゃべりする場所としても機能している。
 ここの他、奥地には原生林もある。そこではのびのびとした等身大の自然が存在している。そこを一時間ほどで回れるハイキングコースもあるから、老人たちにも人気だ。老人の散歩にちょうどいいコースなのだ。

 スーは一人でそのハイキングコースを歩いていた。木々からは良いにおいがする。空気も都会よりずっと美味しい。

「やっぱり良いわね、こういうところは…」

 背後にいるはずの男に話しかけようとして振り返るが、彼女の後ろには誰もいない。そこでやっと気がついた。シンは家で休んでいるのだ。だからここにはいない。
 せっかくの休日だから、どうせならばシンと一緒に来たかった。
 誰か友だちを呼べばいいのだが、こういった自然を感じられるところには同郷の人間と一緒に行きたい。一緒に同じ風を感じて、同じ木を見て、同じ川のせせらぎを聞く。
 サカにいたころは同じにおいがする友だちみんなで野山や草原を駆け回ったものだった。みんなでかくれんぼをしたり、かけっこをしたり、自然の中にいればまったく飽きない。
 しかし、今日のスーは一人だった。一人でこのハイキングコースにやって来た。一人なのは仕方ない。シンはもう社会人、スーとずっと一緒にいられる立場ではないのだ。そう考えると勝手に置いていかれたような気持ちになってとぼとぼとハイキングコースを進む。

(ここの木は素晴らしいわ)

 人間の手の加わっていない原生林からは野生の逞しさがひしひしと伝わってくる。サカではそういう国定公園も多かったから、小さい頃から自然は身近だった。
 今になっても変わらないでいようと思っても、やはり、時と環境が許してくれなかった。
 毎日ぎゅうぎゅう詰めの満員電車で都会に行って、学校に行って、月見が丘まで帰ってきてバイトをして家に帰る。夕食も一人だから簡単に済ませがちだ。味気のない生活を送っていると感じる。しかし、どうしようもない。スーもなかなか自然に触れられないことくらい承知だった。

(仕方ないわよね、だから休日の今日…)

 そこでスーは気がついた。
 自分が何も感じられなくなっていることに気がついた。

「何の『声』も聞こえない…」

 近くに小川があるはずなのにせせらぎが聞こえない。故郷ではいつも聞こえていた風のうわさ話も、木々がざわめく声も何も。
 立ち止まって辺りを見渡す。確かにそこに自然はあるのに、木々のいいにおいがするのに、物足りない。

 『声』が聞こえなかった。

 今自分の身に起っていることが理解できなかった。
 スーの気持ちを察したように空の天気が一気に悪くなる。青空を少しずつ薄暗い雲が覆っていく。ごろごろと怪しい音も聞こえてきた。
 そこでスーは一気に走り出した。
 確かに雨が降ってきたのもあるのだが、何より現状を信じたくなかった。



 ハイキングコースを出た頃には雨もすっかり本降りになっていた。すでに雨に打たれて、頭からつま先までびしょびしょになってしまったスーはもう諦めて、とぼとぼ歩いていた。
 自然公園にいた人々は雨が降ってきたため、すでに家に引き揚げたのだろう。もう誰もいない。それだけに寂しさが増す。

(雨の『声』も聞こえない…)

 六月とは言え、少し肌寒くて、腕を組む。雨に濡れた髪が重い。この状態で家に帰ればシンはなんと言うだろうか。もしかしたら怒られるかも知れない。しかし、そんなことは小さな問題で何より自然の『声』が聞こえなくなっていたことが彼女の問題だった。これ以上にショックなことはない。
 自然は小さな頃から身近にあって、何よりも大きな友人のような存在だった。そんな友人に突然見放されたような…そんな気がする。

「…お前は隣に住んでいる…」

 雨の中でもはっきりと低い声が聞こえてきた。声のした方を向くと茶髪に赤いパーカーの男…ルトガーが味気ないビニール傘を差して立っていた。何をしていたのか知らないが、今日は珍しく血色が良い。

「あなたは…」
「…ルトガーだ。どうした、傘を忘れたのか?」
「それは別に良いの。でも、私…私……」

 原生林の中で気がついてしまったことを思い出して、一気に堪えていた涙が放出した。雨の冷たさに混じって温かい涙がぼろぼろと流れ出す。それを何度も拭うが間に合わない。とうとう鼻水まで出てきた。

「…一体何があった」

 唐突に泣き出してしまったスーにさすがのルトガーも動揺しているようだ。流れる涙を拭って、嗚咽を漏らしながら肩を震わせている。
 雨に打たれたまま泣いている彼女に彼はそっと傘を差しだした。

「そんなことしたらあなたが濡れる…」
「構わん。…そんなことよりも帰るぞ」

 ルトガーはそっとスーの肩を抱いて、傘の半分に入れる。赤いパーカーがたちまち濡れていくが、彼には些末な問題だった。そんなことよりも急に泣き出した彼女を家に帰してやることこそ先決だと考えたのだろう。

「私…『声』が聞こえなくなっちゃったの…」
「そうか」
「それが、すごく寂しくて…いや…」
「そうか」

 ルトガーはしきりに涙を拭うスーの背中を軽く叩きながら歩く。
 スーにとって温かいのは涙と肩に感じるルトガーのぬくもりだけ。しかし、それがどんな暖房よりも温かくて、さらに泣けた。雨の中、恥ずかしがることなく大声で。

「あなたには…『声』聞こえる?」
「ずっと前から聞こえなくなった。こうやって、一人で無感動な生活を繰り返しているからな…」

 涙を拭いながらのスーの質問にルトガーは静かに答えた。

「…また、聞こえるようになれるかしら……?」
「…おれにはもう無理だ。だが、お前のように自然を愛する者ならばまた聞こえるようになる。きっとな」

 隣人とは言え、ほとんど知らない人間も同然なのに、ルトガーは優しかった。それが嬉しくてスーはまた涙を流した。

「…ルトガーはどうして、そんなに優しいの?」
「…同郷出身の女が泣きながら雨に打たれていたなら、傘を貸してやらねば男が廃る」
「ありがとう…」

 ほぼ無償に近い優しさにスーは涙を流しながら感謝した。
 この雨の中、ルトガーのぬくもりだけを感じる。
 このお返しは必ずしよう、そう誓いながらスーが前を向くと灰色の空の下にハイツ月見が丘が見えていた。

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