08話
知らないところ
2023-10-20 22:45:25
朝から降っている雨は夜まで続いていた。外からしとしとと寂しげな雨音が聞こえてくる。テレビも何もつけていないから、その音が何より際立って聞こえてくる。
「ずっと降っていますね」
「ええ」
ちらりと玄関のドアを見やると向かい側に座っていたスーはどこか素っ気ない返事を漏らした。夕食のじゃがいもとりんごの煮物でごはんを食べながら、何か物思いに耽っているようだった。今日、バイトから帰ってきてからずっとそうだった。
「スー様、何か考えごとでも?」
「今日、隣の人がお客さんとして店に来てたの」
「はい」
「あの人、ずっと憂鬱そうな顔をして紅茶を飲んでいたの。どうして、彼はあんなにも憂鬱そうなのかしら…それがずっと気になってて」
ごはんを食べる手は止めずに彼女は語る。つまり、隣の部屋に住む男のことが気になって仕方ないということだ。彼女のことだからおそらく恋愛的な意味のそれではないことは間違いないのだが、なんだか気になってしまう。
「シンは彼について、どう思う?」
「どう思う? と言われましても」
いつになく真剣に訊ねられ、シンは少しだけ困った。正直なところ、あまり顔を合わせることがない存在なだけに顔を覚えていなかったのだ。だから、彼がどういう人間なのかまったく知らない。単に隣に住んでいるという情報を知っているだけの赤の他人だ。
しかし、目の前の彼女はただの隣人である彼に対して、こんなにも思い悩んでいる。
「どうしてそんなにも気になられているのですか?」
「なんでなのかしら…なんだか放っておけないの。理由も教えてくれないし」
「スー様にどうとできる問題ではないでしょう。関わらないのが一番です」
「そうね…」
そんな他人のこと、放っておけばいいのだ。一人暮らしでシンが学んだことだ。
サカは田舎であるから隣近所がみんな知り合いで、出会えば挨拶と一緒にどうでもいい近況を伝え合うのが常だ。それならば、隣近所の悩みごとはみんなの悩みごとになるが、都会のように人の流れが速く、人間関係が希薄ならば、何も気に留めることではない。
都会はサカのように誰かのために立ち止まっていられる場所でないのだ。
「今日シンはどうしてたの?」
「久し振りによく眠りました」
そこで話を変えるようにスーが切り返してくる。唐突に自分にふられ、シンは戸惑いつつも答えた。
「そうね、私が起きる時間に起きてこなかったもの。昼食は用意してたけど、食べた?」
「朝食と兼用になりました」
ここのところの終電続きでシンはすっかりくたくただった。仕事には慣れてきた。一日にできることも増えた。だから、こんなにも忙しくなってしまったのだ。今では所内では若手のエースだと上司に言われた。
朝も早いし、帰るのも遅い。たまに帰れなくなってしまう。好きなことを仕事にしているから頑張れるのだが、こうもやることが多くては辛くて倒れてしまいそうだ。
「一週間、お疲れ様」
「はい…」
たくさん寝ても尚疲れ気味のシンをスーは笑顔で労った。
朝もばたばたしているし、連日夜遅くに帰ってくるから、まともに顔を合わせるのが休日くらいしかない。それだけに彼女の笑顔と労いの言葉は嬉しいものだった。
こういうときにスーと同居をしてよかったとシンはいつも思う。シンが遅く帰ってくるからとやかく言うこともないし、何より彼女の労いにいつも救われていた。
スーのバイト代やダヤンからのスーへの仕送りは多少あるものの、ほとんどはシンの給料が二人の生活を支えている。同居人が彼女であるから、こんなにも頑張れるのだろう、と彼女の笑顔を見るたびに感じていた。
「明日は休みなんだけど、どうする? 自然公園まで少し散歩に行ってみない?」
「いいえ、私は…」
「そう…」
シンの断りから何かを察して、スーは少しがっかりしたように俯いた。
彼女の反応から申し訳なさを覚えながらもシンは自分を癒す方に専念したいと思った。とにかく今は寝たい。休日くらいはゆっくり眠っていたい。月曜日から始まるだろう一週間を思うと溜息しか出ない。
「じゃあ、私一人で行ってくる。シンはゆっくり身体休めてね」
「はい。申し訳ありません」
「気にしないで」
シンが謝るとスーはすぐに首を横に振った。気にしないで、と言われたらさらに気にするのが人間というものである。
今ではもしかしたら、スーにとって同居しているシンよりも隣人の方が近い存在で、だから彼について、彼女はこんなにも思い悩んでいるのかも知れない。そう思うとスーがとても遠い存在のように思えた。
(おれもスー様も、色々変わってきている)
職場や学校で新しい人間関係を築いているのだから、変わって当たり前だ。
向かい側でもくもくとごはんを咀嚼している彼女を見ながら、シンは小さく肩を落とした。
120402