14話

残業の理由

2023-10-20 23:02:28
「シン君って最近帰るの早くなったわよね」

 そう声をかけられて、シンは顔を上げた。上司のミレディがインスタントコーヒーの香り漂うカップを片手にこちらへ視線を向けていた。今、ここにいるのはバリバリ残業をしている彼女と久し振りにちょっとした残業をしているシンのみ。

「申し訳ありません」
「いいえ、怒ってるんじゃないのよ。むしろ、顔から疲れがなくなったから良いと思ってるくらい。前はいつか壊れるんじゃとはらはらするほど残業してたもの」

 ミレディはコーヒーをすすると溜息を吐いた。肩口までの赤い髪がさらりと揺れた。
 女性の身でこの仕事を続けるのは大変だろうといつも思う。みんなをまとめねばならない上、自分の仕事はきちんとやらなければならない。うら若い女性だというのに彼女は弱音一つ吐かずそれをこなしている…尊敬に値する人間だ。

「部長も毎日遅くまで残っていました」
「私は良いのよ、弟も自立しちゃったからどうせ家で待ってる人もいないし。家帰ってもすることがないから仕事をしていたいのよ」

 ミレディの紅い瞳が少しだけ陰る。時折見せる寂しげな表情が無性に気になるが、彼女のプライベートに立ち入るわけにはいかないから、改めて訊ねたことはない。

「シン君は誰と住んでるの?」
「部長には関係ないことです」

 女と同居をしていると言えば、大概の人間は妙な邪推をする。シンは眉を顰めて答えなかった。ミレディはそれ以上訊ねることはしない。

「同居人は大事にしていた方が良いわよ。でないと後ですごく後悔するから。でも、その人のために早く帰ってあげるようなシン君には関係ないかしら」
「部長、もう九時ですよ」

 シンは彼女の席の後ろにかけてある壁掛け時計を指さした。短針が九時まであと一歩のところで止まっている。これ以上、無駄話を続けていれば帰る頃には日付が変わっているだろう。
 シンの言葉にミレディはそろそろ仕事に戻らないとね、と自分の席に戻っていく。
 報告書をまとめる一言をさっと打ち込むとそれを保存する。これで彼の残業は終わった。

「では、部長。お先に失礼します」
「ええ、お疲れ様。気を付けてね」

 荷物をまとめて、席を立つとミレディに一礼してからフロアを後にした。


 社屋を出れば、夜の涼しい風がシンの黒髪を撫でた。まだ部屋に小さく灯りが見えるからミレディはまだ仕事をしているのだろう。
 同居人を大事にするように語るミレディはとても寂しそうな顔をしていた。途中で仕事に戻るよう促したのは一体どんなことがあって、彼女はそういう考えに至ったのだろうか。しかし、彼女に問うつもりはなかった。

 元々シンは他人に興味がない。

 興味がある人間と言えば、尊敬するダヤンや家族、そして同居人であるスーや友人のツァイスくらいなものだ。だから、ミレディの表情にどんな事情があろうと関係ない。シンにとって、ミレディはただの上司だ。
 他人にあまり干渉されたくもないし、干渉したくもない。だから、同僚との関係も薄い。同僚はあくまで同僚だ。友人にはなり得ない。しかし、彼女のその部分だけはどうにも気になった。

 そもそもミレディに言われなくても、シンはスーを大事にしているつもりだ。家で待っている彼女のために仕事を早く切り上げて帰るようになったし、休日は一緒に過ごしている。
 彼女に対して特別な感情があるわけではなく、ただ、元から大事だっただけだ。

「帰るか」

 今の時間なら十時には帰れるだろう。足早に駅へと歩を進めた。
 フロアの灯りはまだ灯っている。今日もミレディは一人で残業するのだろう。

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