11話
本音
2023-10-20 22:52:02
「ただいま」
外は雨、スーは折りたたみ傘も持たずに出かけたというのにその衣服は一つも濡れていなかった。傘を差していても、少しは濡れる。なのに、濡れ一つない。せいぜい、彼女の髪が少し濡れている程度だ。
「如何でしたか?」
「久し振りに色んな『声』を聞いたわ」
ドアを閉めると肩にかけていた鞄をシンに渡して、スニーカーを脱ぐ。濡れていたようで、踝までの長さの靴下は少し湿っているようだった。服は濡れていないのに、髪と靴は濡れている。おかしな状態だ。
「帰ってくる前に誰かに送ってもらったのですか?」
「いいえ?」
「傘を持たずに出られたので、雨が降ってきて心配していたのですが…」
シンがそこまで言うとスーはあからさまに嫌な顔をした。彼の手の中にある鞄は少し濡れている。これ以上は詮索するな、という意思表示だろうが構わず続ける。
「シャニーの部屋にでも行っていたのですか? そこで…」
「違う」
「じゃあどこへ行っていたのですか」
シンが訊ねてもスーは口を噤んだ。こうなってしまえば、彼女の口は貝だ。滅多なことでは開かない。
しかし、なんとなく察しがついた。昨日スーがずっと気にしていた男…隣の部屋に住むルトガーという男だ。
シンが考えるにスーはちゃんと自然公園まで散歩に行った。そこで雨が降ってきて、なんらかの理由でルトガーと会って、彼の部屋に行き、服を洗濯して乾かした。しかし、髪や靴までは完全に乾かず中途半端なことになっている…おそらく、そんなところなのだろう。そういえば、隣の部屋から聞こえてくる乾燥機の音がうるさくて、文句を付けに行こうか考えていたところだった。
何よりの問題は服が乾くまでの時間何をやっていたのかどうかだ。男と女が一緒にいて、やることと言えばなんとなく予想がつく。
「隣の部屋ですか?」
「……」
「そこで服を乾かしたのですね?」
「……」
ぷい、とそっぽを向いて、スーはシンから鞄をひったくると自分の部屋に入ってしまった。そんな反応を返すと言うことは図星に近い。自分の態度が暗にそれを肯定していることに彼女は気づいていない。
「スー様、とても感心できません。若い男の部屋に転がり込むなど」
「…シンだって若い男じゃない。それと同居してるんだから一緒よ」
「肯定なさるのですね」
もし、彼とスーがやることをやっていたのだとしたらどうにも胃がむかむかしてきた。まだスーはこの春に十九歳になったばかりだ。そういうことをするにはまだ早いと古い考えのシンは思う。
「もし、間違いがあったとしたら…」
「そういうことがあったと思うの? 私は誰にだって簡単に股を開く女じゃないわ」
急にドアが開いて思い切りシンの鼻を襲った。そこには怒った顔をしたスーが立っていて、まっすぐ鼻を押えているシンを睨み付けている。
「スー様…その表現はどうかと…」
「私だってもう十九歳。そういうことがあってもおかしくない年齢よ。だけど、そこまで尻軽なわけじゃないわ。私のことを信じられないの?」
ぎろりと睨まれて、シンは蛇に睨まれた蛙のように口を噤んだ。
「ルトガーは彼なりに私のことを慰めてくれていたの。雨の中で泣いている私に傘も貸してくれた。それに服だって乾かしてくれたわ…。その温かい心遣いがとても嬉しかったわ」
「何故、泣いておられたのですか…?」
「下手に心配事を増やしたら、仕事に障るんじゃない?」
「仕事」という言葉をやたらに強調してスーは腕を組む。シンよりも身長が低いというのに何倍も大きいようなそんな錯覚を覚えた。
同居をしているはずなのに、シンはスーが起きる前に出て行って、スーが寝てしまってから帰ってくる。サカではずっと家の中に誰かがいる状態で暮らしてきた彼女にとって、独りはとても寂しかったのだろう。だから、今…その怒りが爆発しつつあるように思えた。
「休みの日だって、まともに話してくれない。疲れてる、まだ寝たい、最近のシンはそればっかりだわ」
「スー様…」
「学校の友だちの方がずっと私に親身になってくれるし、ルトガーの方がおまえより数倍優しいわ…」
そこまで言って、スーは驚いた顔で口を塞いだ。きっと言うつもりはなかったのだろう。しかし、彼女の口は自然と動いてしまっていた。
シンは申し訳なく思った。一緒に住んでいるはずなのに彼女にこんなにも寂しい思いをさせている。シンにとって、平日のスーは寝ている姿を見て、休日に話す存在だ。その姿を見て、いくらでも励みにできた。しかし、スーにはそれができないのだ。一緒に誰かが住んでいると言うことを実感できなかったのだろう。
「ごめんなさい。シンの仕事が忙しいと言うことは解っているわ。これも言うつもりはなかったの…」
何故彼女は本心を漏らして謝っているのだろう。誰だって一人は寂しい。抱いて当然の気持ちを吐露して、それの何が悪いのだ。
「いいえ、言ってくださった方が良かった。言ってくださらなければ、私はあなたの気持ちを解らなかったでしょう」
「……なんで」
気がつけば、スーのことを抱きしめていた。それがシンの気持ちの表れだった。
歳に似合わず物静かで辛抱強い彼女がこんなにも感情を剥き出しにしている。ずっと彼女の抱いていた気持ちに気づけなかった申し訳なさと自分にとうとう打ち明けてくれた嬉しさが訳も分からずない交ぜになっていた。どう言葉で返したらいいのか解らなかった。だから、口の代わりに身体が動いていた。
「これからは少しでも早く帰れるよう努力します。夕食を一緒に食べられるくらい」
「そんなことして仕事は大丈夫なの?」
「大丈夫です。明日できることを今日やっているだけなので。明日のことは明日すればいい。それに、私の精神もそろそろ限界でした」
手持ち無沙汰なスーの手がそっとシンの背中に添えられる。安心したのか彼女の顔がシンの胸に埋められる。
「ありがとう、シン」
感謝のことばに答えるようにシンはスーの背中を軽く叩いた。何年前だろうか、こうやって彼女を抱きしめたのは。
小さい頃は距離なんてなかった。外で遊び回るのが大好きなスーはいつだって、シンに突撃を仕掛けてきたし、時に応戦することもあった。一緒に遊んであげることも大好きだった。
歳を取るごとに、シンは彼女との間に距離を置くようになった。スーは恩人ダヤンの孫娘で自分とは違うということにシンは気づいたのだ。しかし、彼女は構わずシンに近づいてきた。いくら心理的な距離を置いても、スーは構わずそこに侵入してきた。
そうなると置いていた距離はあってないようなもので、シンにとってスーは近い存在であり続けた。しかし、その関係の形はもはや、以前のような兄妹のようなそれではない。まだもやもやしていてその形は分からないが、もっと違うものに変形しつつあった。
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